大田原市、黄門様が守った日本で一番美しい古墳、下侍塚古墳と、国宝が祀られる笠石神社をめぐる

こんにちは! 那須在住ライターの前田です。

さて、みなさんはこちらがなにかお分かりになりますでしょうか? 



こんもりとした小山に松の木がぎっしり。。。。
こちら、古墳時代の前方後方墳で、栃木県大田原市にある下侍塚古墳になります。
那須地方は、全国でも有数の前期古墳の密集地なのだそう。。。
こちらは4世紀頃につくられた下侍塚古墳ですが、すぐ近くに上侍塚古墳もあります。

古墳といえば、前方後円墳を思い浮かべると思いますが、ここの古墳は、前方後方墳。古墳時代前期には、後方部が円ではなく、四角い形をしている前方後方墳が、中心なのだそうです。
ちなみに、上侍塚古墳の大きさは、114mで全国で7番目の大きさを誇る、大きなものだそう。

今回、栃木県が主催する、とちぎ未来大学の歴史についての特別授業ということで、息子といっしょに大田原市なす風土記の丘油津が見資料館の学芸さんのガイドを伺いながら、侍塚古墳群と笠石神社などを巡ってきました。
最初に、館内で笠石神社の御神体である、笠石のレプリカなどを見てから、いざ古墳へ。


古墳の側面は、葺石と呼ばれる、石で固められているそうです。

今回この古墳に登って、古墳群を眺めるという貴重な体験をさせてもらいました。授業だから特別に登ることができるというのではなく、普段から登ってよいそうですよ。



ちょっとわかりにくいですが、左奥にこんもり平らな盛り上がりがありますよね? あれも、古墳だそう。このあたりには下侍塚古墳群と呼ばれ、古墳がいくつもあるそうです。
こうした古墳を築くには、進んだ技術とたくさんの労働力が必要なことから、当時大きな権力者がいたと思われます。

古墳には四角い形をした後方部と三角のような形の前方部があるのですが、それぞれの高さが全然違いました。後方部のほうがかなり高さがあります。道路から見てるとそんなに違いもなさそうなのに、登るとその高さにびっくり。前方部にも上りましたが、体感として低いなぁと。


高さのある後方部の上から古墳群を眺めることもできます。

この古墳群の発掘調査に一役買っていたのが、水戸黄門として知られる水戸藩主の徳川光圀公だったのだそう。このあたりは、江戸時代は水戸領だったのだとか。古墳を守るために赤松を植えて保護するように命じたのも光圀公だったそうです。

また、光圀公が調査、保護するように命じたもうひとつが那須国造碑。西暦700年頃に建てられたと言われ、僧侶に発見されたときは、倒れて埋まっていたそうです。




これはそのレプリカ。
現在本物は、古墳からほど近い笠石神社にご神体として祀られています。この石にじつにびっしりと美しい漢字が彫られています。
 内容は、当時の那須国の地方官、国造である那須直韋提が、永昌元年に評督に任命されたことを示していて、古代の地方豪族が、国造から評の官人へと転身していく過程を具体的に記しています。

 六朝風の書体を残す古碑として、書道史の観点から、日本三大碑のひとつに数えられており、その中で唯一国宝に指定されています。


侍塚古墳とともに、今から約330年前に、光圀公が佐々助三郎に命じて発掘調査を行い保護したといいます。それまでは、このような学術的な発掘調査は行われたことはないそうで、この一帯は、「日本考古学発祥の地」と言われています。笠石神社の前にも、「日本考古学発祥の地」と記された碑が建っています。

石がご神体という珍しい笠石神社について、神主さんが直々にお話をしてくださいました。このあと、直接御神体である那須国造碑を拝むことができたのですが、帰化した新羅人が記したとされる漢字はとても美しく、現在にはないような字も記されていて、神秘的。まさにご神体の神々しさがありました。

ちなみに日本の古墳時代研究の第一人者であった森浩一先生が、著書『古墳の発掘』で、下侍塚古墳を「日本で一番美しい古墳」と評されていたそうです。そのこともあって、ガイドの方や、地元のパンフレットにも、「日本で一番美しい古墳」と称しているそうですよ。

地元の歴史に触れると、勉強になるうえに、愛着も一層増します。





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