大田原氏の居城だった、大田原城跡(龍城公園)へ
こんにちは、ライター前田です。
今回は前々から気になっていた大田原市の歴史スポット、大田原城跡を訪れてみました。
1543(天文12)年に大田原資清(すけきよ)によって築城された大田原城。それ以後、1871(明治4)年の廃藩置県にいたるまで、300年にも渡って大田原氏の居城だったといいます。
駐車場に車を停めて坂道を登っていくと。。。
案内板が。本丸、二の丸、三の丸に区画されるこの城跡は、東西210m、南北327m、面積9.1haの広さがあるそうです。
二の丸跡に到着。当時を思わせるものは特に残っておらず、広場のよう。戦死者を悼む塔などが設置されていました。
大田原城は東側に流れる蛇尾川(さびがわ)の丘陵を活かして築かれているのだそう。高さは25mほど。
木々に覆われてあまりよく見えませんが、急な斜面の下奥に蛇尾川が見えます。
ここが本丸の跡地。二の丸、三の丸のほか、北と西の曲輪(くるわ)・馬場・作事場等がある複郭式の平山城(ひらやまじろ)でした。
家康はこの城を重視し、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの前には、上杉景勝(かげかつ)の挙兵の際に急いで城の修理を命じたといいます。3代将軍家光は、常に玄米千石を城中に貯蔵させ、奥州への備えとしていたといいます。
1825(文政8)年に火災によって焼失したものの、同年に新たに修造。
戊辰戦争では、大田原藩は新政府軍につき、会津攻めの拠点になりました。そのため1868(慶応4)年に会津軍の攻撃をうけましたが、落城はまぬがれたといいます。
残念ながら、1872(明治5)年に城は兵部省に引き渡されて、取り壊されました。
1886(明治19)年に長野県出身の渡辺国武(くにたけ)(大蔵大臣)の所有に。その後1937(昭和12)年にその子の渡辺千冬(ちふゆ)(司法大臣)によって当時の大田原町に寄贈されて、今の公園に至るそうです。
市街はもちろん、那須連峰まで望め、この眺めのためだけでも訪れる価値がありますよ。
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